昭和27年に竣工、手塚治虫や石ノ森章太郎をはじめとする昭和を代表する著名な漫画家たちが共同生活をしながらお互い切磋琢磨し、しのぎを削った木造アパートが「トキワ荘」です。昭和57年に解体されましたが令和2年に元の場所からは少し離れた公園内にマンガミュージアムとして再現されました。築10年頃の劣化度で階段の軋み音も当時のままに表現されています。そのミュージアムを紹介します。

館銘板

入口

漫画家たちの生活を紹介しながら戦後の高度経済成長期の共同住宅という住空間を通して、生活の様子や文化が展示資料から知ることができます。また、「トキワ荘」があった周辺の今昔写真も展示されており、この地に生まれ育った方にとってノスタルジックに浸ることが出来ることでしょう。

全景

1階は一般人が住まい、2階に漫画家達が詰めていました。ここの2階の住民は厳しい条件と審査があり、ただ絵を描くことが上手いとかマンガ好きだけでは入居できない、選ばれしエリート集団だったことはその後の活躍を見れば明らかなことです。

部屋割振り図

2人部屋

作業部屋

間取りは4畳半一間に押入れのみ、花台付きの開口部はネジ式のカギが付いた木製建具のワンユニットといった風情ある住戸が中廊下を挟んで並んでいます。作図道具が整然と置かれた机上、適度の暗さは落ち着いた空間でした。

花台

便所などの水回りは共同利用で、建物内に風呂はありません。皆、近所の銭湯に通い、一部には共同炊事場で行水をして汗を流した輩もいたそうです。

共同炊事場

共同便所

私自身、アパート暮らしの経験はありませんが、昭和40年代後半頃からの記憶では道にはドブが残り、傍らには消火水槽が置かれ、境界塀は矢板の木造フェンス、といった風景の中に木造アパートが建っていました。昭和40年代以前に生まれ方々には懐かしいのではないでしょうか。

電話ボックス 

レレレのおじさん

かぐや姫のヒット曲「神田川」などの4畳半フォークと呼ばれた楽曲の歌詞の中や昭和50年代の「俺たちの旅」に代表される若者が主人公のテレビドラマで、生活拠点としてアパート生活の様子が描かれていたのを思い出します。

当時の木造2階建てアパートは外階段から2階へアプローチする長屋形式の印象が強いのですが、このトキワ荘は共用玄関があり中廊下から中階段を介して2階へ上がるため、共同住宅に区分されるのだろう。敷地もある程度の広さがあったことが想像されます。

当時の生活はどんな様子だったのでしょう。家族向けは6帖一間や二間続きのタイプもあった記憶がありますが、いずれにせよ決して広いとは言えない空間で日中は家事や仕事、子供は宿題をして3度の食事時は食堂となる。就寝時にはテーブル(というよりはちゃぶ台と言った方が、なじみがある)を折りたたんで布団を敷いて川の字で寝る。そして朝を迎えると再び布団をたたみテーブルを広げて一日が始まる、そのような生活パターンでした。  (アパート暮らしに限った話ではありませんが…)

畳むと言えばかつて着物の衣文掛けや屏風なども使用しないときには折り畳み隅に置くといった使われ方をしていた。そもそも着物自体が畳むことに長けたものでした。風呂敷もそういったアイテムの一つです。限られた空間を有効に活用するためTPOに応じて空間の形態を使い分ける、部屋の転用性といった工夫が見られました。それは畳むという日本独特の文化であったと思われます。

住空間における畳むということは、背もたれを倒すと座席がベッドになり、テーブルを持ち上げると洗面台が出てくる寝台列車の個室レイアウトの発想と無関係ではないでしょう。

トキワ荘の見学を通じて当時の生活事情を知り、日本の文化を感じることが出来ました。

現在の木造アパート事情は老朽化による建物解体が進み、その多くは再びアパートとして生まれ変わることなく戸建て住宅やその他の用途に形体を変えています。しかし、数少なくなった残存する古い木造アパートは家賃が安いこともあり、今もなお根強いファンが少なからずいるようで前記した生活を楽しんでいるようです。

令和の時代、目覚ましい技術の発展を遂げる一方でアナログな昭和レトロに興味を示す若者が増えているそうです。当時の生活や文化に興味をお持ちの方はもちろん、当時を懐かしみ、黄昏れたい方は老若男女問わず散歩がてら「トキワ荘」(ミュージアム)の見学とその周辺の散策を楽しまれるのも良いかもしれません。

付近にはお休み処や「昭和レトロ館」といった関連施設があり、実際のマンガにも登場するラーメン屋さんもあります。

豊島区立トキワ荘マンガミュージアム
(豊島区南長崎3-9-2 豊島区立南長崎花咲公園内)

帰り道、となりまちのうなぎ屋さんで特上ウナギを食して家路につきました。

清水